木のうろ
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おしまい

今日でこの日記をつけるのもおしまいにする。

いい加減この事で思い悩むのが馬鹿らしくなってきた。

週末はほんとに普通に過ごせた。

もちろん明後日も病院にいくし、この先結構辛いこともあるだろうけど、

別れた人間は結局他人だ。携帯の連絡先も消した。

自分を愛して素敵な人を見つけようと思う。


最後に、いつもコメントをくださったどんこさん、ほんとにありがとうございました。

感謝しています。

通院2

二週間に一度木曜日に病院へ通っている。

さっきも行ってきた。

昼間に飲む薬はだんだん減っている。毎晩飲む薬が二週間分しか処方されないので、二週間に一度の通院だ。


最近は昼間職場で昼食を食べて、休憩するときに昔のことを思い出す。

そのときが辛い。あのとき何であんなことを言ったのか、何故泣かせるようなことを言ったのか。

何故彼女に泣かせるような酷いことを言ったのか。後悔だけがどんどん沸く。


でも、俺だってそれと同じくらい辛い、今だって辛い。人間なんだから、お互いさまだ。

向こうが考えていることは分からないし、向こうだって俺が薬を飲んでいることは知らない。

終わった関係なのだから、過去のことはやはり過去だ。

仕事や音楽をしてる時間はそこに没頭できる。空漠の時間が辛い。

前回の通院では、先生はそれを「二度目のこころの穴」と形容した。

別れを告げられ茫然自失となり、生きる力がゼロになる、それが一度目の穴、

そこからだんだん立ち直り、生活を送れるようになり、刹那的に違う相手をむさぼるように探し、

一体自分は何をやっているんだろう。何故あの時、あんなことを言ったのだろう。


そうした後悔や自分へ向かう内省、自責のこころの作用が二度目の穴だそうだ。


先週彼女と、自分の後輩の子を誘っていったライブは本当に素晴らしかった。

そのときは、彼女に多少そっけなく接した。

そして、ライブが終わった以上、こちらから連絡をとらない限りもう会うことはないだろう。

そして、多分俺から連絡を打つことはもうないだろう。


先生にそんなことを言った。

先生は、多分相手の思いでが薄れるまで、二、三年はかかりますよと仰った。

たった二日三日で忘れられるような、それだけの相手と何年も過ごしてきたのなら寂しいじゃないですかと。

それだけ辛い思いをするだけ、価値のある相手だったからこそ貴方は彼女と過ごして、辛い思いをしているんですと。


厳しい言葉だけどその通りだなと思った。

前回の通院で、先生はこの機会を人生上のチャンスだと仰った。

それまでの親しんだ環境からの転換期はいつだってこころ苦しい。

厳しく辛いチャンス。


薬をもらい帰社し、今これを書いている。

二週間に一度の日記。二度目の穴は、おそらく埋まらないだろう。

穴が空いているということを含めて、それが自分自身なのだと思えるようになるまで、

あと二、三年過ぎるまで。三年過ぎれば31歳。

その年齢に達するまで、くだらない時間の使い方だけはやめようと思う。


通院


久しぶりに病院へ行った。

先生に今までのこと、現在の心境を何も考えずに話した。


現在の自分の気持ちが自分でもよくわからない。

段々彼女の不在に慣れつつある。

この間横浜で会った人は、すごく自己中心的な言い方になるけれど、何も魅力を感じなかった。

酒の量は減った。土曜日は英会話学校に行き、一人の日曜日は辛いけれども何度かその日曜を経験した。仕事は順調だ。環境が変わったせいで忙しいが、タスクを滞らせることもなく、新しい企画も出している。

趣味の音楽作成もできるようになった。

彼女とやりなおしたいのではなくて、新しく始めたいという気持ちはある。

連休中にこちらから連絡して、一時間お茶をして別れた。ごく普通の会話だった。


彼女と会わない、互いに他に相手ができたなどの決着を求めているのかもしれない。

未練がましく会っているのはどうなんだろうか。5/21のライブでまた彼女と会うけれど、

その時もごく普通にライブの話や近況の話をして別れるだろう。


通院するようになって半年ですか、と尋ねたら四ヶ月ですね、と返ってきた。

それで、まだ四ヶ月なのかと驚いた。自分の中では半年くらい時間が経っているように思えたから。


自分で自分の気持ちが分からない、定期的に会うことで、こちらの変化を見せることが未練に繋がるのではないか、現状を停滞させるだけではないのか。それならばちゃんと決着をもうけるべきではないのか。


だらだらとそんなことを話した。


先生は「適当でいいんですよ。無理に決着をつけたって、あなたの中では全然決着はつけられない筈だし。それに、人生は仕事のようにはいかない。だから面白いんです。数年経ってみれば自然と決着がつきます。


別れて、どうしようもなくなって、手当たり次第に寂しさを紛らわす相手をむさぼるように捜して、そしてそれまでの行為を、一体自分は何をしていたんだと客観的に見られるようになる。そういう時、また心に穴が空く時期が来るんです。みなさん、そうです」と、そう仰った。


すごく楽になった。

今まで、なければならない、べきである、という論法で考えていた自分が楽になった気がした。


先週は後輩を誘ってライブに行った。そのライブは本当に楽しく、彼女がいなくても心底踊れて楽しめた自分がいた。その後輩に恋情を持とうかと思ったが、そんな本末転倒な情はあり得ないと思って苦笑した。


5/21のライブ以降、別段彼女と会う約束はなくなる。

こちらから連絡をしない限り連絡はこないだろう。もし純然と友達として見てくれるなら、8月の自分の誕生日にはメールくらいはくるかもしれない。友達同士でのプレゼント交換は彼女の中では遵守する儀礼だったから。メールがこなければそれはそれまでのこととして受け止めよう。


どんこさんの仰ったフレーズが頭に残っている。

「彼女のいない春夏秋冬を過ごしてみる」


最近ネットで目にした、浄土真宗の学僧の言葉も。

「一度気持ちを塩漬けにしてみる」。


会いたいと思ったらメールしてお茶をすればいい。それほど頻繁に会っているわけでもないし、

出張の際にはおみやげを渡せばいい。適当でいいんです。

数年後には自然と決着がつく。あなたはきちんと自分の足で立てるようになってきています。

そう先生に言ってもらえて嬉しかった。


一人であるということを本当に認識するには、自分が一人であるということをどれだけ遠くの視点から(友達、恋人、所属集団などを離れて)眺められるかにかかっている、という言葉がある。


八年間、何もなくつき合ってきたのが不自然だったのでしょうね、と聴くと、

みなさんそう仰るんです、と先生は笑った。


挫折もなく順調に過ごした人間には、挫折や痛みを知る術がない。

挫折や痛みを知った人間のほうが、人に対して優しくなれるし、また人もそういう人といると安らぐものです。

私だって、順調一直線の人間とはあまり話したくありませんよと先生は笑った。


このチャンス(先生はチャンスと言った)を経験する前と後では、あなたは全然人間として違ってきている筈です。何が欠点で、何が相手にとって苦痛となるかをわかることができるようになってきている筈だと。


無理に決着を求めない。適当でよい。時間は流れる。いずれ決着は自然と訪れる。


そう言って、薬をもらって帰社した。

心に穴はあるけど、穴を含めて、なんだか平な気持ちだ。

休日2

連休後半は二つ上の人が予約した横浜のホテルに行って一泊した。

こちらから一方的に距離を置こう=別れようと言う前の約束だったので、反故になっていたと思っていたらまだ生きていた。


一ヶ月ぶりに会って(と、相手から言われるまで分からなかった)、ぎこちなさだけがあった。

横浜はすごい人混みで、デパートで食料を買い、部屋に戻り一日中テレビを見た。

眠って起きて朝食を食べ、昼前に別れた。


後でメールが来て、いろいろ言いたいこともあったが顔をみたら全部忘れた。

あなたはいい友人だから、何かあったら連絡してくださいと書いてあった。


返信には、友人と見てくれてありがとう。もっと他人に対して笑えるよう強くなれるよう頑張ります、体には気をつけてと書いた。


別れ際、当分会うことはないと思うけどと彼女は言った。その通りだろうと思う。

前の彼女と別れてから会った二人の女性とはこれで区切りがついた。

そう感じながら、好きという感情を持たない相手に対して区切りをつけるのは、なんと楽なのかと思った。

エゴイスティック極まりないが正直な感想だった。


その後友人と会い、夕ご飯を食べた。

友人とその彼女とその友達。

そこに前の彼女と自分が入ってよく会食をしていた有楽町の店だった。


ことさら彼女の不在を感じることはなかった。

むしろ彼女の不在が自然だと感じつつある自分が形成されつつあるのかもしれない。


いつもコメントしてくださるどんこさんのアドバイスは、正論であるが故に見るのが怖かった。

今回、もし万が一、彼女とつき合うことができたとしても、それは自分が無理をしての、彼女と寄り添う形になりはしないかと書かれてあった。


相手に何かを求め始めるときに破綻がはじまるのだろう。

彼女は自分が加えたその負担によって、関係を終わらせたのだ。


一度別れた男女が再びつき合うことは希であることは分かっている。

それには、振ったほう、振られたほう双方の変化が必要であることも。


もしもう一度、万が一、「新しい異性同士として」彼女とつき合うことができたら、

互いの変化と生活を容認しあう関係でありたいと思う。

それが人と「つきあう」ということだと思う。


変化は見せなければ、話さなければ伝わらない。

彼女の不在を自然なものと感じるこころを育てつつ、月に一度は彼女と会おうと思う。

矛盾しているが、会ったあとでとても自分が辛くなることも体験しているが、

そのつらさがなくなったとき、彼女を本当に友人として見られるようになったとき、

それが先生のいう「地に足のついた状態」になれたということなのだろう。

そうなったとき、初めて「友達として」ではなく「友達から」という希望がもてるかもしれない。


しれないばかりの希望的観測だらけだが、それでも絶望しかない日々よりはずっとマシだ。

休日

休日は辛い、寂しい、辛い。

仕事に逃げることができない。

連休なんていらない。


自分ひとりだけの時間を過ごすのは辛い。

趣味の音楽もPCが不調で、ずっと昨日はPCと格闘していた。

趣味にも仕事にも逃げることができない。

部屋に自分しかいない時間、外に出ても一人の時間を過ごす辛さに耐えるのは疲れた。


寝てもおきても、頭にあるのは前の彼女のこと、

今何をしてるんだろう、帰省はできないと言っていたから多分部屋にいるんだろう、

今何をしてるんだろう。お茶かご飯にでも誘ってみようか、メールを打ってみようか、

友達としてならそれも許されるだろう、


もう一度彼女と付き合いたい。彼女のことが好きだ。

もう一度異性として自分を見てくれるように、会う機会を増やすべきじゃないのか。

離れた心を取り戻すのではなく、別れた人間がまた付き合うためには双方の変化が必要だ。

俺は変わっただろうか、変わった筈だ。少なくとも何が彼女にとって負担だったのかを認識した。

人前で怒ることも少なくなった。


彼女はどうだろうか。変わったのだろうか。

でも、会っていないから変化はわからない。会いたいが、5/21のライブで会うことは確定している。

休日が辛い。でも、会ってお茶をして別々の部屋に戻った後、彼女は少しでも俺の辛さの何十分の一かでも寂しさを感じるのだろうか。


別れようといわれてからいろんな人と会った。

失恋板に狂ったように書き込みをして、とにかく誰かと一緒にいたかった。

今夜一緒にご飯を食べるのはまた別な人だ。

この人は俺よりも多分恋愛は生活に疲れている。ずっと誰かの代わりだったから、

誰かと付き合うということが考えられないという人だ。

この人とは何度かご飯を食べた。後先考えずに、自分はあなたに好意を持っているとも告げた。


全部埋め合わせだ。二つ上の人も、今回の人も、全部彼女の埋め合わせ。

先生、あなたは人間は神様じゃないからそこまで責任を取ることはないと言ったけど、

埋め合わせの繰り返しで結局俺は他人を傷つけて、俺も傷つけた分のしがらみを受けてはいませんか。


八年つきあった時間を忘れるには八年必要なんですか。

そもそも、忘れることなんてできません。

人5

日曜日には忘れていたと思っていた大きな揺り戻しが来た。

週末は出張で京都に行き、桜を携帯で撮り、前の相手に送りつつ次回のライブチケットは五月だがどうするね、と送り、きれいだね、とりあえずチケット取りますと返信が来たのでそのまま新幹線でビールを飲んで帰宅した。

 

日曜日に会ったのは、一月二月の一番酷かった時期に、部屋に来てくれて一緒に名作アニメを見てご飯を食べ、話を聞いてくれたかつてのバイト仲間であり今はイラストレーターをしている人だ。

彼女から彼氏と今回は本当にうまくいかないのでアルコール接種につきあってくれとメールがきたので渋谷で飲んだ。

 

前後するが、土曜日は英会話学校に通い、午後から一歩も外に出ず酒ばかりを飲む日々だった。

体重は49キロになった。薬を飲んで酒を飲んで前後不覚になっていれば時間は勝手に過ぎてくれるからだ。

 

こういう用事があって外に出て、パブのトイレで顔を見て酷い顔をしていると思った。

彼女の話は、数年つきあっては別れ、ヨリを戻し、別れ、の繰り返しで、今回のは決定的になりそうだということだった。原因はセックスで、彼女は痛覚しか感じないのだそうだ。

彼氏に感じている感情はまだ恋情なのかい、それとも情かいと聴くと、情だと返ってくる。

友達としてやっていけたらベストなのに、と。

 

彼女の誕生日は俺と一日違いの八月だ。彼女の彼氏は、それまでに三回セックスをし、そのうち一度でも彼女が痛くなかったらつきあってくれ。そうでなければ縁を切ろう、という内容を話したそうだ。

 

この男の理屈が俺には傲慢でも何でもなく、手に取るように分かった。

彼女の彼は、当時の俺とまったく同じだから。

セックスは互いの合意がないと必ず齟齬が生じる。

言葉が通じない相手に無理矢理意志を押しつけたところで、それはただの暴力だ。

言葉であっても体であっても。

 

かつて自分は、前の彼女とセックスを何度もした。気持ちよく、愉しく、心地よかったことも何度もあった。

だからその事態が段々変容し、前のようにうまく行かなくなってきてからはどんどん接し方がぎこちなく、強引に束縛するようになった。

 

セックスが痛くてできない、という相手の要望に対して、それじゃ回数をまず減らすから、というのは完璧に男の理屈だ。女性は回数云々を問題にしている訳ではない。行為そのものが嫌だと言っているのだから。

 

自分は前の彼女から、あなたにはもう異性としての感情は考えられない、異性とみれない以上セックスはできない、と告げられてから今に至るまで、一度も射精をしていない。性欲が消失した。

 

悩みや愚痴を告げてきた彼女に言ったのは、君の彼氏の申し出は完全に男の理屈でエゴであり、俺も似たようなことを言った経験がある。だから、最終的に拒絶し、友達でいるのがベストだと伝える権利が君にはあると言った。性欲とその人を本当に好きだという気持ちを混同している間はまだ相手に甘えているだけなのだと。

 

八月の誕生日まで、別れるかそうでないかのカウントダウンとして君だけが痛みを味わうのはおかしくないか?と。

 

そうした話をして、人でごったがえす渋谷を歩くうち、まるでさっきの話はかつての俺と前の彼女と同じだ、と思い、出張の疲労もあったのだろう、胸苦しさを覚えながら街を歩いた。

彼女と駅で別れ、電車を待つ間にホームに降りたらどうなるだろうなどと考えてる自分に気づいてぞっとした。

 

帰宅して、二つ上の人から入っていたメールに返事を書いた。何度も返信をし、電話していいかと書いた。

こちらから距離を置こうといい、殆ど情報交流をシャットダウンしていたにも関わらず。

 

彼女は激務で体調を崩しているとのことだったが、気合いで治しましたと言った。

そして俺のことを怒った。当然だろう。怒りつつ、正直あなたが何考えてたかわかんないとも言いつつ、

それでもわたしも正気じゃなかったんだからまあ五分五分だね、と言われた。

 

電話で今の心理状態をだらだらと伝え、全然前の相手のこと吹っ切れてないじゃん、と笑われた。

おやすみと受話器をおき、メールがきた。

言いたいことやまほどあるし、あったら多分鉄拳飛ぶかもしれないけど、でももうなんだかあなたに対しては乗りかかった船だから、何かあったら電話でもしなさいと返ってきた。

 

ありがとう、返す言葉もありませんと返信すると、

 

あなたに礼を言われる筋はないし、もう貸しも借りもない。飛び降りるんなら飛び降りてみろやコラとヤンキー言葉で罵倒してやるからそのつもりで、と返信がきた。

 

この日から酒か薬どちらかを絶つことにしようと思う。

薬は処方されたものだが酒は自発的におぼれたものだ。絶つなら後者だ。

薬6

好きな相手と別れたという同じ境遇で会った二つ上の女性に別れを告げた。
もう少し距離を置こうと、以前の彼女に告げられた言葉と殆ど同じ内容のことを伝えた。
あなたのことは嫌いでもないけど好きでもない、異性として見ることができない。

 

その後は自分の言葉を伝えた。
そして、自分達の関係は、弱った者同士が依存しあう甘えだと思う。
事実自分はあなたに甘えた。あなたが僕に対して好きだと言ってくれるのは、それも甘えだと思うし、もしそれが真正のものなら、自分はその気持ちには応えられない。

 

 やりとりはメールで行った。とても傲慢な私見を書く。
相手から送られてきたメールのすべては、俺を肯定する内容だけだったように思う。
嫌われたくないように、手放されないように、そうした基本感情が前提にあったと思う。

 距離を置こうというメールの返信は、酷い言い方になるけれど想像の範疇内だった。
泣きそうだけど、依存じゃなく甘えじゃなくなるまで頑張ると。

それから数通メールが届いた。返事はすべて短く、最後にありがとうとだけ付け加えた。
前の彼女と別れた後、自分も相手を気遣うメールを送った。
研修で風邪などひいてませんかと。その返信は、大丈夫、ありがとうだった。


 つきあっているとき、メールでのやりとりで末尾にありがとうはつけなかった。
そうした感情は、言わなくても互いに内包されていたからだ。

別離を通して他人同士となった証が「ありがとう」なのだなとその時思った。

 

長い間つきあった人間と別れ、多少時間が経過し落ち着いてきた時に自分を苛むのは、一人の時間の過ごし方だ。
有り体に言えば、一人でいたくない。
誰かといたい。強迫観念的に誰かを好きになり、つきあいたい。そう思ってしまう。
そして、冒頭のようなことが繰り返される。

 昨日は医者へ行った。先生に上記のことを話した。


先生はパズルのピースの話しをした。
あなたが感じている欠落感、消失感は欠けたパズルのピースです。
ピースの欠けたままのパズルは違和感があるでしょう。
まして、ずっと長い間はまったままのピースが抜けた後のパズルはとても大きな違和感があるでしょう。 でも、欠けたままのパズルを一つの完成品として見られるようになった時、あなたは初めて彼女のことを忘れられるんじゃないですかと。

以前の通院で先生は、きちんと自分の足で、誰かに依存することなく立つことができれば、初めて一人の人間となれると仰った。それと同じことなのだろう。


「欠けたピースを抱えたパズルという完成品」は、大事な何かを失った事実をきちんと認知した上で生きていく強さを持った一人の人間だ。自分だけの足で立つことができる人間。


二つ上の人に距離を置こうと言い、それでも強迫観念的に誰かを求めてしまい、同じことを繰り返してしまうのではないか。


そう尋ねてみると、いいんじゃないですか。僕たちは神様じゃないんです。
そうやって繰り返して、いつか本当に新しいピースが見つかるかもしれない。
あなたは状況を客観的に見ることができています。
患者さんの中には、そうした欠落感、消失感を、自分のせいではなく、
ほかの何かが奪い取ったのだというように原因や経過を仮想の何かに転化させて治療を行っている人もいる。 そうした中で、自分の判断で行為を行い、その結果に悩んでいるあなたは客観的に自分を見ることができていると思いますよ、と仰られた。

 

明日は前の彼女とライブに行く日だ。
会って取り乱すようなことはもうないだろう。ライブが終わってお茶をして、じゃあまた舞台かライブがあったら見に行こうか、くらいのことは言えるだろう。


誰かを求めている間は、彼氏彼女が欲しいなと思っている間は相手は見つからないと巷間ではよく言われる。今は薬と酒と仕事に依存して一人の時間を生きていこう。

薬5

二週間に一度のペースで通院している。
担当の先生から毎回尋ねられることがあり、就眠起床時間はどれくらいですか、昼間眠くなりますか、ということ。薬とお酒のおかげで毎日熟睡している。飲み始めは頭痛がすることもあったが、今ではそれもなくなった。ただ、昼間眠くなることもない。

眠さが心と薬のバロメーターなんですと先生は言った。薬を飲んで、眠くなってくるようならだんだん薬を減らしていくことができます、と仰られた。眠くならないということは、ちょうど薬の麻痺効果と精神の不安材料が拮抗している、まだバランスがとれている証拠なのだからと。

先生には二つのことを相談した。一つは現在交流のある二つ上の女性のこと。お互い似たような境遇で知り合い、埋め合わせをするように会っている。自分は相手に恋情はもっておらず、それでも寂しさを埋めるために部屋に来て貰ったり、一緒にでかけたりしている。傲慢や勘違いかもしれないが、相手はこちらを異性として好意を持っているようである。そして、俺に好きな人ができたらいいね、というようなニュアンスの言葉を言われたこともある。そういうつきあい方で、こちらに本当に好きな人ができたとき、それではさようなら、とその人に伝えるのは人としてやっていいことなのか。

二つは、近いうちに前の彼女と一緒にライブを見にいくこと。以前互いに貸し借りしたものを返却しあうときにライブの話が出て、俺はチケットとるけど君はどうする、と聞いて、それじゃお願いする、ということでチケットは二枚部屋に届いている。 メール電話は一切していない。借りたものを返したいという連絡もこちらから送ったし、チケットについてその後連絡もない。

相手のことを考えて心が支配されて動けなくなるようなことはもうないが、それでも心のどこかで前の相手のことを考えている。いや、そうではなくて、消失感、欠落感にまだ慣れることができない。ライブを見終わり、お茶をした後、多分これで会うこともないのだろう。前の彼女は、別れるときに友達でいたいと言った。でもそれはこちらへの思いやりであり、欺瞞であると思う。

友達として会ってまだあなたが私を好きなら、もう会わないほうがいいと思う、という言葉も続いたから。その両方の言葉を言うまでに、つまり別れようと思うまでに、彼女は彼女で一人で考えた時間があった。そのタイムラグが前の彼女と今の俺にはあるんではないか。 物を返したとき、相手は笑顔だった。多分こちらの顔はこわばっていたと思う。今度ライブ会場で会うとき、できればこちらも笑って会いたいと思う。別れた後の、相手の知らない自分を見せたいと思う。お茶を飲むとき、いろいろ辛かった、そっちはどうだい、また会ってくれるかい。どうした言葉は吐きたくない。 そんなことを支離滅裂に先生に話した。



先生は、神様ではないんだから、人にはそういう出会い、巡り合わせがある。何かを失ったもの同士が出会うことはままあるし、その関係の現在に囚われるのではなく、ある程度成り行きというものに任せたほうがいいと。 それと、これは私見ですが、と断りを入れてから先生が言うには、多分僕なら彼女と会って、思っていることを伝えると思う。別れていろいろ辛かったけど、とにかく君という支えがなくても二本の脚で立てるように、どんな手段を使ってでも生きていくつもりだと。

「**さんが二本の脚で立てるように、その支えとして薬があると思ってください。無理にやめようとしない。いずれは必ずやめられます。きちんと自分の脚で立つことができる大人になったとき、薬は必要なくなります。多いんですよ、大人でも、**さん以上の歳でも、自分で立つことができない人はほんとに多いんです」

「もしその二つ上の相手との関係が破綻しても、または好転しても、前の相手とまたつきあうことになっても、**さんに別の本当に好きな人ができたとしても、そのときにあなたに課せられる条件は、ちゃんと自分の二本の脚で立てる人間になっているかどうかだと思います」と先生は締めくくった。


中世の告悔室とはこんな空間だったんだろうか。
よく、医者、とくにメンタルヘルス系の医者、カウンセラーと患者は治療者と患者という関係を越え、患者が相手に過剰な感情を抱くことがあるという。当然だ。心の苦しみを聴き、それに応えるプロなのだから。

しかし、患者の苦しみに逆に汚染されてしまうことはないのだろうか。精神科医という存在はきっととても強靱なのだろう。 ライブの二日前が通院の日で、もう四月に入っているころ。部署異動も引継もやっつけでどんどん動いている。自分の脚で立つということを考えよう。もっと。

自分

水曜日に、週末に、終電で二つ上の彼女が部屋に来た。
部屋に来て酒を飲んで眠った。
部屋に人が来るのは楽しい。一人の時間を多忙に過ごせるようになったけれど、特に週末は酒と薬に頼っている。
そういう時に、誰でもいいから側に人がいてくれるのは心が安まる。その彼女は雑誌を読みながら寝ころび、自分はPCに向かって曲を作ったりして時間を過ごした。
トマトソースが上手にできたスパゲティをおいしいと平らげ、その後布団で抱き合って、体温を求めあって、身体を触りあった。セックスはしなかった。性器は固くなったけれど、2ヶ月間射精はしておらず、そのときも身体を触って、人の温度を感じているうちに眠った。目が覚めると相手は起きていて、こちらの髪を撫でていた。

ホワイトデーには、お返しに自分が作った曲が欲しいというのでCDに焼いて渡した。メールが届き、とても感動した、こういう感動が味わえて、辛い立場同士の出会いだったけれど貴方と会うことができたのは幸せだと書いてあった。

部屋を訪れてくれればくれるほど親密さは増す。
それは恋情かというのなら、やはり恋情ではない。
ただ、ありがたいと思う気持ちだ。

仕事は本格的に忙しい。その忙しさには不本意も含まれているが異動はこの季節の常だ。

年末の別れから周囲が急激に変化している。
明日はまた通院の日だ。処方を変えてもらう。
これからの仕事は人と接することが多くなる。
編集部ではなくなる。自分は人と接するスキルが低いくせに人に依存しないと駄目になる人間だ。薬の力に頼ってでもその駄目さ加減を修正する。

前の彼女のことを考える水位は減っているがなくなってはいない。
ただ、二ヶ月前の自分にはもう戻れないし、戻りたいとは思えなくなっている。

前身か変化なのかは分からない。陳腐な言い方だが、変わらないものなど何もないということを身を切るように実感しながら生きている。


人4

人の好意に年齢による違いというものはあるのだろうか。
誰かを好きになるということに理屈はいらないという好きもあれば、知り合って言葉を交わしていくうちに段々と自分の中の好きに気づくパターンもあると思う。

前の彼女と会ったのは二十歳の時で、一目惚れではないけれど、同じバイト先で、近くに彼女がいるとやはり心が嬉しくなった。ドキドキ感と言うのかもしれない。

二十歳の好きと二十八の好きは違うとは思う。
先週末部屋に来て一緒に眠ってくれたmixiで会った二つ上の人とは毎晩電話をしている。メールもしている。その中で、向こうは、自分は貴方を束縛はしないが、あなたのことが好きだと言う。
夕べの電話もそういう終わり方だった。

吊り橋の上の好きではなく、本当に向こうがこちらのことを好きだというのなら、それは相手を傷つけることになる。
自分はその彼女の存在が今は本当にありがたい。
誰か寂しいときに声を聴ける相手がいるということは、本当にありがたいと思う。
でも、ありがたいと好きは違う。今は、自分は、その人と同じ部屋にいても楽しくはあるが嬉しくはならない。

二ヶ月ぶりに前の彼女と会って、物を返して30分で別れた。
しかし、待ち合わせ場所で久しぶりに顔を見たとき、嬉しかった。

事を急ぎすぎているのかもしれないが、
もし相手が、俺と同じ甘えやすがりの対象ではなく、本当に好きだと思ってしまうようならば、それはきちんと断らなければならない。

年始に、前の彼女がきちんとこちらと顔を合わせて言葉で伝えた行為がどれだけ礼儀に叶ったものだったか、そう考えるとよく分かる。前の彼女は時間は問題ではないと言った。しかし八年と一ヶ月でも、拒絶は拒絶だ。

こちらの錯覚に過ぎないのかもしれない。
でも、本当に相手の好きが、うれしさを伴う好きだとしたら、
俺は貴方にはうれしさは感じられないと、礼儀を持って伝えなければならないだろう。


理由もなく一緒にいると嬉しい。友達であれば、楽しさを共有できる。でも一緒にいるうれしさを共有できる相手は、好き合っている人間同士でなければ不可能だ。

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