薬5 | 木のうろ

薬5

二週間に一度のペースで通院している。
担当の先生から毎回尋ねられることがあり、就眠起床時間はどれくらいですか、昼間眠くなりますか、ということ。薬とお酒のおかげで毎日熟睡している。飲み始めは頭痛がすることもあったが、今ではそれもなくなった。ただ、昼間眠くなることもない。

眠さが心と薬のバロメーターなんですと先生は言った。薬を飲んで、眠くなってくるようならだんだん薬を減らしていくことができます、と仰られた。眠くならないということは、ちょうど薬の麻痺効果と精神の不安材料が拮抗している、まだバランスがとれている証拠なのだからと。

先生には二つのことを相談した。一つは現在交流のある二つ上の女性のこと。お互い似たような境遇で知り合い、埋め合わせをするように会っている。自分は相手に恋情はもっておらず、それでも寂しさを埋めるために部屋に来て貰ったり、一緒にでかけたりしている。傲慢や勘違いかもしれないが、相手はこちらを異性として好意を持っているようである。そして、俺に好きな人ができたらいいね、というようなニュアンスの言葉を言われたこともある。そういうつきあい方で、こちらに本当に好きな人ができたとき、それではさようなら、とその人に伝えるのは人としてやっていいことなのか。

二つは、近いうちに前の彼女と一緒にライブを見にいくこと。以前互いに貸し借りしたものを返却しあうときにライブの話が出て、俺はチケットとるけど君はどうする、と聞いて、それじゃお願いする、ということでチケットは二枚部屋に届いている。 メール電話は一切していない。借りたものを返したいという連絡もこちらから送ったし、チケットについてその後連絡もない。

相手のことを考えて心が支配されて動けなくなるようなことはもうないが、それでも心のどこかで前の相手のことを考えている。いや、そうではなくて、消失感、欠落感にまだ慣れることができない。ライブを見終わり、お茶をした後、多分これで会うこともないのだろう。前の彼女は、別れるときに友達でいたいと言った。でもそれはこちらへの思いやりであり、欺瞞であると思う。

友達として会ってまだあなたが私を好きなら、もう会わないほうがいいと思う、という言葉も続いたから。その両方の言葉を言うまでに、つまり別れようと思うまでに、彼女は彼女で一人で考えた時間があった。そのタイムラグが前の彼女と今の俺にはあるんではないか。 物を返したとき、相手は笑顔だった。多分こちらの顔はこわばっていたと思う。今度ライブ会場で会うとき、できればこちらも笑って会いたいと思う。別れた後の、相手の知らない自分を見せたいと思う。お茶を飲むとき、いろいろ辛かった、そっちはどうだい、また会ってくれるかい。どうした言葉は吐きたくない。 そんなことを支離滅裂に先生に話した。



先生は、神様ではないんだから、人にはそういう出会い、巡り合わせがある。何かを失ったもの同士が出会うことはままあるし、その関係の現在に囚われるのではなく、ある程度成り行きというものに任せたほうがいいと。 それと、これは私見ですが、と断りを入れてから先生が言うには、多分僕なら彼女と会って、思っていることを伝えると思う。別れていろいろ辛かったけど、とにかく君という支えがなくても二本の脚で立てるように、どんな手段を使ってでも生きていくつもりだと。

「**さんが二本の脚で立てるように、その支えとして薬があると思ってください。無理にやめようとしない。いずれは必ずやめられます。きちんと自分の脚で立つことができる大人になったとき、薬は必要なくなります。多いんですよ、大人でも、**さん以上の歳でも、自分で立つことができない人はほんとに多いんです」

「もしその二つ上の相手との関係が破綻しても、または好転しても、前の相手とまたつきあうことになっても、**さんに別の本当に好きな人ができたとしても、そのときにあなたに課せられる条件は、ちゃんと自分の二本の脚で立てる人間になっているかどうかだと思います」と先生は締めくくった。


中世の告悔室とはこんな空間だったんだろうか。
よく、医者、とくにメンタルヘルス系の医者、カウンセラーと患者は治療者と患者という関係を越え、患者が相手に過剰な感情を抱くことがあるという。当然だ。心の苦しみを聴き、それに応えるプロなのだから。

しかし、患者の苦しみに逆に汚染されてしまうことはないのだろうか。精神科医という存在はきっととても強靱なのだろう。 ライブの二日前が通院の日で、もう四月に入っているころ。部署異動も引継もやっつけでどんどん動いている。自分の脚で立つということを考えよう。もっと。