休日2 | 木のうろ

休日2

連休後半は二つ上の人が予約した横浜のホテルに行って一泊した。

こちらから一方的に距離を置こう=別れようと言う前の約束だったので、反故になっていたと思っていたらまだ生きていた。


一ヶ月ぶりに会って(と、相手から言われるまで分からなかった)、ぎこちなさだけがあった。

横浜はすごい人混みで、デパートで食料を買い、部屋に戻り一日中テレビを見た。

眠って起きて朝食を食べ、昼前に別れた。


後でメールが来て、いろいろ言いたいこともあったが顔をみたら全部忘れた。

あなたはいい友人だから、何かあったら連絡してくださいと書いてあった。


返信には、友人と見てくれてありがとう。もっと他人に対して笑えるよう強くなれるよう頑張ります、体には気をつけてと書いた。


別れ際、当分会うことはないと思うけどと彼女は言った。その通りだろうと思う。

前の彼女と別れてから会った二人の女性とはこれで区切りがついた。

そう感じながら、好きという感情を持たない相手に対して区切りをつけるのは、なんと楽なのかと思った。

エゴイスティック極まりないが正直な感想だった。


その後友人と会い、夕ご飯を食べた。

友人とその彼女とその友達。

そこに前の彼女と自分が入ってよく会食をしていた有楽町の店だった。


ことさら彼女の不在を感じることはなかった。

むしろ彼女の不在が自然だと感じつつある自分が形成されつつあるのかもしれない。


いつもコメントしてくださるどんこさんのアドバイスは、正論であるが故に見るのが怖かった。

今回、もし万が一、彼女とつき合うことができたとしても、それは自分が無理をしての、彼女と寄り添う形になりはしないかと書かれてあった。


相手に何かを求め始めるときに破綻がはじまるのだろう。

彼女は自分が加えたその負担によって、関係を終わらせたのだ。


一度別れた男女が再びつき合うことは希であることは分かっている。

それには、振ったほう、振られたほう双方の変化が必要であることも。


もしもう一度、万が一、「新しい異性同士として」彼女とつき合うことができたら、

互いの変化と生活を容認しあう関係でありたいと思う。

それが人と「つきあう」ということだと思う。


変化は見せなければ、話さなければ伝わらない。

彼女の不在を自然なものと感じるこころを育てつつ、月に一度は彼女と会おうと思う。

矛盾しているが、会ったあとでとても自分が辛くなることも体験しているが、

そのつらさがなくなったとき、彼女を本当に友人として見られるようになったとき、

それが先生のいう「地に足のついた状態」になれたということなのだろう。

そうなったとき、初めて「友達として」ではなく「友達から」という希望がもてるかもしれない。


しれないばかりの希望的観測だらけだが、それでも絶望しかない日々よりはずっとマシだ。