通院 | 木のうろ

通院


久しぶりに病院へ行った。

先生に今までのこと、現在の心境を何も考えずに話した。


現在の自分の気持ちが自分でもよくわからない。

段々彼女の不在に慣れつつある。

この間横浜で会った人は、すごく自己中心的な言い方になるけれど、何も魅力を感じなかった。

酒の量は減った。土曜日は英会話学校に行き、一人の日曜日は辛いけれども何度かその日曜を経験した。仕事は順調だ。環境が変わったせいで忙しいが、タスクを滞らせることもなく、新しい企画も出している。

趣味の音楽作成もできるようになった。

彼女とやりなおしたいのではなくて、新しく始めたいという気持ちはある。

連休中にこちらから連絡して、一時間お茶をして別れた。ごく普通の会話だった。


彼女と会わない、互いに他に相手ができたなどの決着を求めているのかもしれない。

未練がましく会っているのはどうなんだろうか。5/21のライブでまた彼女と会うけれど、

その時もごく普通にライブの話や近況の話をして別れるだろう。


通院するようになって半年ですか、と尋ねたら四ヶ月ですね、と返ってきた。

それで、まだ四ヶ月なのかと驚いた。自分の中では半年くらい時間が経っているように思えたから。


自分で自分の気持ちが分からない、定期的に会うことで、こちらの変化を見せることが未練に繋がるのではないか、現状を停滞させるだけではないのか。それならばちゃんと決着をもうけるべきではないのか。


だらだらとそんなことを話した。


先生は「適当でいいんですよ。無理に決着をつけたって、あなたの中では全然決着はつけられない筈だし。それに、人生は仕事のようにはいかない。だから面白いんです。数年経ってみれば自然と決着がつきます。


別れて、どうしようもなくなって、手当たり次第に寂しさを紛らわす相手をむさぼるように捜して、そしてそれまでの行為を、一体自分は何をしていたんだと客観的に見られるようになる。そういう時、また心に穴が空く時期が来るんです。みなさん、そうです」と、そう仰った。


すごく楽になった。

今まで、なければならない、べきである、という論法で考えていた自分が楽になった気がした。


先週は後輩を誘ってライブに行った。そのライブは本当に楽しく、彼女がいなくても心底踊れて楽しめた自分がいた。その後輩に恋情を持とうかと思ったが、そんな本末転倒な情はあり得ないと思って苦笑した。


5/21のライブ以降、別段彼女と会う約束はなくなる。

こちらから連絡をしない限り連絡はこないだろう。もし純然と友達として見てくれるなら、8月の自分の誕生日にはメールくらいはくるかもしれない。友達同士でのプレゼント交換は彼女の中では遵守する儀礼だったから。メールがこなければそれはそれまでのこととして受け止めよう。


どんこさんの仰ったフレーズが頭に残っている。

「彼女のいない春夏秋冬を過ごしてみる」


最近ネットで目にした、浄土真宗の学僧の言葉も。

「一度気持ちを塩漬けにしてみる」。


会いたいと思ったらメールしてお茶をすればいい。それほど頻繁に会っているわけでもないし、

出張の際にはおみやげを渡せばいい。適当でいいんです。

数年後には自然と決着がつく。あなたはきちんと自分の足で立てるようになってきています。

そう先生に言ってもらえて嬉しかった。


一人であるということを本当に認識するには、自分が一人であるということをどれだけ遠くの視点から(友達、恋人、所属集団などを離れて)眺められるかにかかっている、という言葉がある。


八年間、何もなくつき合ってきたのが不自然だったのでしょうね、と聴くと、

みなさんそう仰るんです、と先生は笑った。


挫折もなく順調に過ごした人間には、挫折や痛みを知る術がない。

挫折や痛みを知った人間のほうが、人に対して優しくなれるし、また人もそういう人といると安らぐものです。

私だって、順調一直線の人間とはあまり話したくありませんよと先生は笑った。


このチャンス(先生はチャンスと言った)を経験する前と後では、あなたは全然人間として違ってきている筈です。何が欠点で、何が相手にとって苦痛となるかをわかることができるようになってきている筈だと。


無理に決着を求めない。適当でよい。時間は流れる。いずれ決着は自然と訪れる。


そう言って、薬をもらって帰社した。

心に穴はあるけど、穴を含めて、なんだか平な気持ちだ。