木のうろ -2ページ目

人3

二ヶ月ぶりに会った前の彼女との時間は、やっぱり不意に心を圧迫する。
その時はきちんと別れたけれど、夜になり友達と一緒にご飯を食べ、翌朝先輩と酒を飲み、翌朝出勤し、仕事をする。
そうした時間において、彼女のことを考える時間は減っている。
言葉を換えるなら、考えている水位が減っている。
けれど、やはり水は少しでも溜まってはいる。

mixiでやりとりが始まった人とのメールや電話は今でも続いている。
その人のメールは饒舌で、思いやりがたくさんつまっている。
その分だけ、この人も辛さを味わった人なんだろうなと思う。

夜寝る前に寂しく辛くなったとき、今はその人に電話をする。
朝起床すると、その人からメールが入っている。
ありがたいことだと思う。

すがり、甘え、およそそうした感情以外の何物でもない。
できればその人を理屈抜きに好きになれれば一番良かった。
けれどそうではない。

メールでは、その人は「自分のために時間を充実させて、それで私ともたまに遊んでくれるだけで十分」と書いてあった。

その人が自分に対してもってくれている好意というのも、おそらく理屈抜きの好きではないのだろう。自分は、つき合う人には自分からつきあってくれと行ってきた。おそらく相手も同じタイプだ。
そしてそうしたタイプの人間は、つきあって欲しい、と言われると身構えてしまうのだ。深入りされて己が傷つくのが怖い故に、人の好意をわざとシャットダウンすることがある。

それがどんなに傲慢な行為かは、自分が誰かからシャットダウンされないと永遠に分からない感情だ。

体調は変わらない。
三回日に薬を飲み、帰宅して音楽をして酒で薬を飲んで寝る。
性欲はまったくない。医学的に夢精もしないというのは何か弊害があるのだろうか。

返す2


昨日前の彼女と会い、貸しあったものを返却しあった。
待ち合わせ場所で二ヶ月ぶりに会った彼女は笑顔で久しぶり、といい、
それで胸がつまることもなく近場の喫茶店に入った。
品物を交換し、言葉少なく近況を報告しあう。
痩せたね、顔小さくなったと言われ、仕事忙しいから、そっちは、と聴くと、うちも忙しいよという。

一緒に音楽をやっている友人の彼女と、先月末ご飯を食べたよと聴いた。
その彼女は、自分の前の彼女を何でか慕っている。
想像にすぎないけど、何で別れたのか、そういった話題も出たのだろう。
友人の彼女の個人的なサイトも、自分達の別離の後に閉鎖した。
それが自分達の影響なのかどうかはしらないが、仲の良かった集団において、
その構成要素の一部が破綻するというのは他のメンバーにおいても扱いづらい事柄なのだと思う。

30分程度で店を出て別れた。
夕方には別な友人がやってきた。
前日にはまた別な人が部屋に泊まった。
自分を束縛はしないけど、今はあなたが一番好きだと言ってくれる。

久しぶりに前の彼女の顔を見て、やっぱりまだ好きだ、たまらない、
という激しい感情は湧かなかった。
ただ、4月のライブでまた会う機会があるのだなと思うと素直に嬉しい。
正直、付き合ってくれないか?と言おうかともかすかに思った。

でも、そうした心の情動をどこか頭上から眺める自分がいることに最近気付く。最近読んだ本に、人を好きになるのは箇条書きのような理屈じゃないんだ、という一文があった。その通りだと思う。

今の自分は、久しぶりに会った前の彼女に対して、過去情報以外の好きは抱いていないし、泊まってくれた人に対しても理屈抜きの好きは感じられない。

長いこと異性とつきあってきて、その環境が霧消した生活にまだ完全に慣れきっていないだけなのだろう。

理屈抜きの好きは、好きを渇望している間は決して得られないはずだろうし。

返す

連休中は買い物をした。
食器に続いて、小物、日常雑貨、服などたくさん買い物をした。
一緒につき合ってくれたのはmixiで知り合った人と、以前一緒に部屋でビデオを見て泣き言を聴いてくれた人。

捨てる行為は気持ちがいい。
そして、それに変わるものを一新して補充する行為も気持ちがいい。部屋の中の些細なところが次第に変化していって、いつの間にか自分一人の空間に変わっていく。

前の彼女から借りたものはそのまましまっておいた、と以前の日記に書いたけれど、買った品物を部屋に置き、さらに服や本、CDを捨て選別していく間に、借りたものは返そうと思った。

こういう時に綺麗に梱包できればいいのだろけれど自分は器用ではないので、ショップでもらったビニール袋に文庫本、DVD、CDを入れてテープでとめた。

翌朝出勤しメールをした。
借りたものを返したいので週末に10分程度そちらの近所の喫茶店で会おうと。返信は、わたしもいろいろ返すものがあるので、途中の駅で会おうと。

4月には、以前二人で見に行っていたミュージシャンのライブがある。俺はチケットを取るが君はどうする、と聴くと、私も行きたいと思っているということだった。
そして土曜日に会うことになった。何ヶ月ぶりとかもうあまり覚えていないし考えようともしない。

一切気負いなく、と言えば嘘になるが、フラットに近い気持ちでメールができた。借りたものを返し合うという行為で別れに一つのけじめがつけられる。その上でまた同じライブを見にいくことができて、今回もかっこよかったな、と言いながらお茶ができれば、それはやはり友達、と呼べるんじゃないだろうか。

こういうメールが送れるようになった背景には、やっぱり先日買い物につき合い、今の自分と同じような状態にある女性の存在がある。彼女は週末部屋に来ることになっている。
吊り橋の上で傷をなめ合うのではなく、趣味の合う友達としてつきあって、それで自分のことを好きになったらそう伝える、と言ってくれた。その人の言葉やメールは前の彼女とは異なり、能弁で、強くて弱い。

自分がその人を好きなのかどうかは分からない。
それこそ、傷を埋め合う相手が見つかった安堵感に過ぎないのかもしれない。その安堵感は、向こうも同じかもしれない。

けれども、こうやって知らない人間同士が出会って、結びついて、友達になって、恋人になって、破綻して、結婚して、時には死んだりもする。

諦観ではない、最終的には自分は一人なのだという認識を、言葉ではなく身体と心を持って実感するには、上記のようなプロセスが必ず必要なのだ。その意味で、今自分は自分を本当の意味で構築しつつあるように思う。たとえそれが酒や薬や異性への依存を含めた構築であったとしても。

一度壊れたものをもう一度同じように築けるほど、人間は強くもないし馬鹿でもないはずだから。

人2

mixiで知り合った二つ上の女性は、やはり自分と同じような境遇で、最近人と別れたそうだ。「好きになったらごめんなさい」という言葉は、側にいた誰かを失った喪失感をとにかく一刻も早く埋めたい、という感情に他ならないと思う。多分彼女が自分にチョコや贈り物をしてくれたのも、代償行為の裏返しなのだろう。
ただ、もしそれが本性からの自分へ向けた好意の産物なのだとしたら、それはとても嬉しいことだ。

相変わらず薬を飲んでいて、昨日の夢は、前の彼女が年上の別な男性と以前から付き合っていて、実は自分と二股状態だったという何ともまあ救いのない夢だった。

ただ、それでも朝起きると「しょうがねえ夢見ちまったもんだ」とふとんを干し、買い物に出かける活力が最近は沸いてきている。

それは、多分きちんと前の彼女に「前の」という枕詞をつけられるようになったくらい一人の生活を確立でき始めてきているようにも思う。

mixiで会った彼女は、脆い部分や辛かった部分をたくさん自分にぶちまけながらも、やはり確固として自立した一人の女性だったように思う。
その人とのやりとりで今は自分自身が楽しく、とまでは行かないけれど、とりあえずは平穏に一人の週末を過ごすことができている。

仕事もどんどん忙しくなる。過去はどんどん過去へと過ぎ去っていく。
休日の朝、一人で起きて、ミルクティーを煎れて、アロマオイルに火をつけてゆっくり音楽を聴いて、午後には友達と買物の予定がある。
こうした時間が過ごせるようになるとは、一ヶ月前には想像もできなかった。

それは薬と酒がもたらす錯覚なのかもしれない。けれど、錯覚でもいいから、
こうした時間が平穏に過ごせる自分の心境の変化をありがたいと思う。

カーテンを開ければ今日も晴れている。

友達にすすめられたmixiというサイトで知り合った人と飲んだ。
自分より2つ年上の人で、趣味嗜好が異常なほど似通っていた。
相手も最近別れを経験したとのことで、笑いながら泣きながらの変な飲みだった。好きになったらごめんなさいと言われたが、吊り橋理論以外の何物でもないと思う。
自分も彼女も、一人の週末が耐えられないだけなのだろうと思う。
ごめんなさいから始まる好きは多分どちらも幸せにはなれない。

出張から帰ってそのまま英会話学校に行って、飲みにでかける。
体を酷使しているときは何も考えなくて済む。

前の彼女とは一切連絡のやりとりがない。
それでいいのだと最近思う。夢に出てきたり、電話がかかってこないだろうかという期待も不意によぎるけど、今は終わったことなのだと静かに思える気分だ。

今日は一日中酒を飲み、曲を作り、本を読んで寝て起きてこの日記を書いている。酒が入ると、薬を何錠飲んだか忘れてしまうのでいけない。
結局睡眠薬と安定剤を一粒づつ飲んだ。

言葉は祝と呪の両方の力があるというけれど、別れ際、あなたとはもうセックスできないと言われてから一ヶ月強が経つ。マスターベーションも含めて一度も射精していない。体は心に隷属するんだなと思う。
本当の性欲は、恋情がないと作動しないということが分かった。

誰かを好きになりたい。

捨てる

いろんなものを捨てている。
服、食器、ボディタオル、本、漫画、雑誌、CD、
先日部屋に来た友達に、友人の子がやはり恋愛関連のストレスで馬鹿買いをしてしまい、借金まみれで風俗まがいのことをしている、という話を聞いた。

それと根は同じかもしれない。
とにかく捨てる。捨てようと思えば捨てる物品が必要になる。
この場合部屋を整理しようとか綺麗にしようとかいう目的じゃない。
事の始まりは彼女から借りっぱなしだった(最終的にはもらった)ジーンズを捨てたことから始まった。彼女に買ってもらった服、一緒に選んだ服を捨てる。写真も捨てる。画像があったら消す。勢いづいて、彼女以外の人間から届いた数年前の手紙(両親・友人含む)も捨てる。食器、調理器はすべてもえないゴミ袋につめて新しいものを買った。
もうぜんぜん趣味じゃない、昔好きだったミュージシャンのCDも捨てる。
今の自分に必要じゃないと思われるものはすべて捨てた。

新しく生まれ変わるとかそういう強圧的な作業じゃなく、物を捨てて自分が軽くなっていくのが感じられる気がした。今並んでいるのは、自分で選んだ服、自分で買った食器、自分で買った本だ。

彼女から借りたままの本とCDも捨てようと思ったが、それこそ友達という名の他人となった今、それは了承がいるだろうと思い捨てるのはやめて本棚の奥に押し込んだ。

前の日記に、節分の時期の恵方巻きをほおばるのが彼女は好きだった。
その時期にもう一度メールしてみようか。別れを告げられて一ヶ月だ。
そう書いた。

一緒に音楽をやっている友人にメールをした、
彼は自分と違い、出会いと別れを経験している人だ。
自分は、きちんとつきあったのは彼女が初めてだった。だからその分、別れの
衝撃は死にそうなほどだ。

彼からもらうメールは、部屋に来てくれた友人、一緒に飲みながら話を聞いてくれた友人のどれとも違っていた。

。一ヶ月近くたって連絡が向こうから来ないと
>いうことは、もう終わったこととして生きてったほうがいいのかな。
>正直連絡できない、もう会わないと言って他人に戻るのは辛いよ。会おうと思えば会
>えてしまう今の状況が良くないのかな。
そう書いて送った。返事は、

確かにその状況がよくないです、というのも**さんは他の行動をする時、今までの蓄積をモノにして消去する事で前に進むのが 正 として生きてきた強さだから。それとこれとは違う話しのようですが 多分それが一番自分にあった手段なんですよ。自分は結構やれるはず。

そう返ってきた。
蓄積をモノとして消去することで前に進む、と自分のことが書かれてあり、
不遜でもなんでもなく、そういえば、音楽でもそうだった、と思った。

彼は相手と別れ、新しい好きな人が出来るまで二年間連絡を取らなかったそうだ。今ここで話をしても、また逆戻りする危険があると。

彼は最後にメールで、

>辛いですが 本当に**(彼女)さんを思うなら 耐えるべき。やはり楽しく会わなければ価値はないです、

応援してます

そう結んであった。

楽しく会わなければ価値はない、という言葉をよく考える。
今俺は彼女にメールを送って、返事が来て、そこで楽しいだろうかと。
嬉しいとは思う。けれど、多分楽しくはない、楽しいはずはないだろう。
こちらは別れる前の彼女にメールを打つ。返ってくるのは別れた後の、友達という名の他人からのメールだ。他人より、もっと溝の含まれたメールだろう。
その溝に自分は必ず気づく。送る彼女の気持ちは分からないが、
他に好きな人ができていたとしての返信なら、それこそうざったいだろうし、
一人いる時間に慣れつつある状態でもらったメールならば、
それこそ自分で溝を刻んだメールを書いて送ってくるだろう。
お互い楽しいはずはない。

こっちが勝手に先走ってそう考えて、向こうはあっけらかんと昔の男、友達からのメールとして返信してくるのかもしれないが、それも自分はやはり、返事が来るのは嬉しいけど、好きでいて、好きでいてくれる相手からのメールじゃないから幸せにはなれない。

自分で彼女に連絡はできない、と言い聞かせたほうがいいですと彼は書いていた。その言に習おうと思う。

相手に辛いからもう会えない、連絡できないと告げることはやっぱり出来ない。けれど、こちらが連絡をとらないままでいることならできそうだ。

今日は部署替えで、自分のデスク周りを整理した。
いろんなものを捨てた。数年前の仕事の資料。その資料を基に作っていた紙媒体はとっくに廃刊になっている。

明日から土曜日までほぼ出張だ。
体を動かすこと、頭を働かすこと。よく眠ること。友達と話すこと。
自分一人の生活を確立させること。

この書き殴りに、男性の読者さまからメールをいただいた。
それこそネットでできた木のうろに自分のぐちゃぐちゃを書き殴っているだけだけど、勉強になると言ってくれた。なんだか不思議な気分だけど、どうもありがとうございます。

週末



金曜日に思い立ち、それまで使っていた食器、いらない服、漫画、本などをどんどん捨て新しい食器を仕事帰りに買い込んでタクシーで帰った。
毎週末にやってきては一緒にご飯を食べた食器は用はないし見たくもない。
ボディタオルも全部とりかえた。すっきりした。

昔やっていたハウス世界名作アニメ劇場の上映会をしよう、という話で、
先日渋谷で自分の話を聞き、頭を抱いてくれた友達がわざわざ横浜からやって来てくれた。俺自身に対する親切心もあるのだろうし、純粋にその映像が見たいというのもあるのだろう。どちらか一方だけではないと分かるのが救いだし、分かりやすいのが友達のいいところだ。

チャイを煎れてあげようと言うので、久しぶりに池袋の町中を歩き、漫画を買い、スパイスを探す。休日に街に出るのも久々だし、女の子と昼間町を歩くのも久しぶりだった。その時は楽しかった。

家に帰って茶を飲み、酒を飲み、キムチ鍋をつくって映像を見、自分はいつのまにか眠ってしまっていた。

隣に敷いたふとんで寝ている友達を起こさないように朝ご飯の支度をし、薬をビールで飲んで二度寝した。起きたのは十時半だった。

それから二人でぼけっとして、コーヒーを飲み、ご飯をたべ、日曜の昼のテレビをぼんやり見て婦人雑誌をネタにバカ話なんかをして、また昨日の映像の続きを見始めた。


映像を見ながらやっぱり発作が来た。
すまないが手を握っててくれないか、とお願いして、友達に手を握ってもらって、泣きながらいろいろ話した。
居心地の違和感はあって当然だ。
自分は友達にすがりたい一心で家に呼んだ。
ふとんで寝ている彼女にご飯だよといって起こすのも、一緒のふとんで眠るのもそれはもう生活だったから。
友達に頼むことじゃない、本当は手を握ってくれないかじゃなく、ぎゅっと抱きしめさせてくれないかと頼みたかった。

もし彼女とまた新しくつきあうことができるとするなら、それは俺自身も彼女自身も内的な変化があって、そこで過去の出来事を「ああ、そういえばそんなこともあったな」みたいなレベルの認識にすることができて、互いが互いの生活を持って初めて、新しい男と女として見ることができるんだろう。
だから自分自身のために自分を使うべきなんだと、何度も書くし何度も思う。

手を握ってくれた友達は、自分からつき合ってくれと頼んで結局自分から別れて、ふっきるまで三年かかったといった。それは、もう友達が、相手の顔もみたくない、というような喧嘩別れだったそうだ。

そういう終了の仕方もある。
他に好きな人ができたという終わり方もある。
異性として見られなくなったから終わりにしよう、というのは、
どれくらい一般的な別れなんだろう。

別れよう、というまで、相手の人はそれだけ考えたんだよね。
その一人で考えた時間の分だけ、**さんより、一人の時間に慣れる速度は速いはず。**さんも彼女が先んじた時間の分だけ遅れて、一人の時間に慣れる
ようになるよ、と友達は言った。

睡眠薬と安定剤を一錠づつ多めに飲んだ。
八時半には眠れた。

別れてからの彼女の動向は知らない。
他に好きな人ができたのならそれでいい。
過ごした時間の欠落感がこんなに辛い正体んだろうか。
新しい異性として彼女を見ることができるのだろうか、それは不安だ。
今までを忘れることはできないけれど、それを単なる「出来事」として、いとおしむことも残念がることもなく、ただ出来事として思い返せる日がくるんだろうか。

薬4

仕事の合間に精神科に行く。
今日が校了なのに未だにイラストが一点届かない。

この日記に書いたようなことを、先生に話した。
相手のために自分を磨く、ってことは欺瞞だってこと、
結局そんなことは相手に頼まれた訳でもなく、
自分のこころを守るための方便だったってこと。
だから今は、部署替えも控えているし、
自分自身のために自分自身を磨いていきたいと言った。

先生は、こういう経験は風邪みたいなもので、
経験するたびに抗体ができて、対応できるようになるんです。
ただ、その痛みを無理に我慢しよう、サディスティックに自分を
責めようとしなくてもいい。風邪をひいているときに、
招来もっと強くなるようにとわざと薄着でいる人なんていないでしょう?
鎮痛剤もあるし、解熱剤もある。辛いときはそういうものに頼っていいんです。そう言った。

「こういう辛い経験をして、ちゃんとしたおじさんになっていくんですよ」と言った先生の姿が印象的だった。

ネクタイも締めずシャツにジャケットで、髪も長めの、「きちんと」なりきれていない己に対しての、善意に満ちた揶揄のようにも思えた。

薬についての説明も聞いた。
今飲んでいるのは、レキソタンという麻酔薬のようなものと、パキシルという向精神薬。前者はいろんなことが思い出され、ストレスに耐えきれなくなったときに精神を鈍麻させるもの。飲んで五分~十分で効果が現れる。後者はセロトニンという脳内物質の分泌を増大させ、外的なストレスにたいする抵抗力を高める薬。これは飲んでから二週間ほどしないと効果を発揮しない。

レキソタンをやめるタイミングは簡単です、と先生は言った。
昼間レキソタンを飲んで、眠くなりますか?と問われ、いいえ、
と答えた。レキソタンは麻酔薬なので、こころが正常な場合には麻酔は不必要な眠気として現れる。だから、夜睡眠をとって(おかげで夜は睡眠がとれるようにはなった)まだレキソタンを飲んで眠くならないということは、まだあなたのこころと薬のバランスが拮抗しているんですよ、と。なるほどと思った。

仕事をしながら、先日上野で飲んだ相手とメールをしている。
話もかみ合わないし、相手がしゃべる自分のことにこちらが合わせているような、会話未満のメールだ。
それでも、誰かとつながっている感触がおぼろげにでも得られることはありがたい。

そう、ありがたい、と思うことが、まだ薬とこころが拮抗しているということなのだろうか。

このまま彼女に連絡を取らなくてもよい気がしてきた。
向こうは友達でいましょう、友達でいたいと言った。
しかしそれは別れの常套句だろう。
あなたが辛ければ、このまま会わないほうがいいだろうとも言われた。

二月三日は恵方巻きの日だ。彼女は恵方巻きをかぶりつくのが好きだった。その日にでも、かぶりついてるかね、とでもメールしてみようか。

朝2

時間が解決するよ、という言葉は、
時間が経つのを安穏とじっと待つのではなく、時間を経過させるために自分が動かなくてはならないことだと思った。

いや、ねばならない、ではなく、動こう、という自分自身の意志によってだ。

ここ数日仕事をして、友達と話して、以前に書いたメールの相手とメールをして、すごく安易な書き方かもしれないけれど、幾分落ち着いてきた。

過ごした歳月に固執するのではなく、その歳月をどう過ごしてきたかをきちんと反省、反芻することが大切なのであり、それは一ヶ月でも三年でも八年でも変わらない。彼女は多くを語らないし、語ることが下手な人だったが、今思うと多分そういうことを伝えたかったのだろうと思う。


不謹慎とは思わない、今は新しい恋愛がしたいと思う。
もうしばらく一人でもいいとも思う。
やっぱり誰か側にして欲しいとも思う。
その相手が彼女でも、新しい相手でもいいとも思う。
もし万が一その相手が別れた彼女だとしたら、それは新しい「彼女」なのだろうから。
ただ、今では可能性を考えられるようになった。

別れを告げられた相手の為に自分を磨こう、そしてもう一度アプローチしようという書き込みをいろんなネットで目にした。自分もそう書いた。

でも、今ではそれは間違いだと思う。勿論、その思いで必死に頑張っている人だっているだろう。

けれど、別れを告げた相手のために自己研鑽をすることは、多分自分自身に必要以上の負荷をかけ、心をより苦しめることになる。思いでだってどんどん強固になっていく。

相手のためにではなく、自分自身のために、自分自身の力や時間を使えるようになったとき、初めて過去は過去として見られるようになるんだろうし、新しい相手に向ける目も開かれるのだろう。

多分、一人の生活に段々慣れつつある。
心は今日は平静だ。

見知らぬ相手とのメールにやりとりしてくれる彼女も、電話口で泣きついて話を聴いてくれた彼女も、飲み屋で一緒に泣いてくれた親友も、そういう存在が居てくれて幸せだと思う。

骨折が激痛からうずきに変わるように、心も変わっていくんだろう。

夢を見て目覚める。
彼女の上唇、下唇に順にキスをする夢だった。
起きたのは午前五時だった。
辛い辛いと何度書いたところで始まりはしないが、
今は辛いというよりやりきれない。
今一番望むことは体が夢精することだ。
意識的に自分の性的欲求と対峙したくない。
それも彼女との関係を終わらせた原因の一つなのだから。
自慰をすればきっと彼女のことを思い出すだろうし。

性欲抑制効果のあるというDHCのホルモン材を飲んでいるけど
プラシーボか。

先ほど職場で二月一日からの正式な事例が下ることを知った。
二月の第一週は研修者同士の親睦会(飲み会ツアー)に参加し、そのまま朝は東京に戻り英会話学校に行く。

四年間分さようなら編集部。今度は文字から人への部署だ。